MIAの創設者、ムーチョ小野正孝
MIAの原点と言えば、小野正孝氏。まず、MIAの全てを発想したわれらがムーチョ・小野正孝先輩のことを話したいと思う。
小野先輩は、長野市の川中島の地に生まれました。もともと山梨県からおじいさんが長野に出てきて、材木屋を始めたといいます。それで「甲州屋」という屋号になった。戦後などは秋田などから大量に材木を仕入れ、商売は大繁栄しました。川中島駅は、その材木を下ろすための駅として新設されたということも聞きました。
私も一度、川中島の自宅を訪ねたことがあります。大きな屋敷でした。しかし、小野さんが青年会議所に入会した昭和33年、小野さんが26歳のころは社員が10人くらいのどこにでもある材木屋だったといいます。それから総合建材店となり、サッシや軽天を扱い、ALC板で独自の住宅まで開発するようになりました。私たちが長野に行くようになったころには、長野県では2番目の大手建材店になっていたのです。
小野先輩は青年会議所の運動に没頭しながら、会社を大きく伸ばしていきました。男の兄弟が3人いて小野さんは三男で会社では常務でした。
しかし、新しい仕事の開発や社員教育、経営方針などは小野さんの力が大きく発展の原動力になっていたようです。MIA研究会で私の信頼する友人でもある長野青年会議所OBの久保田輝男氏の言によれば、甲州屋は「ほとんど小野さんが中心だった」、といいます。
青年会議所でも、最初はスピーチも満足に出来ず、まったく普通の会員だったと本人は謙遜して言っていました。ブロックに出ても、地区に行っても、日本JCに行っても、凄い人ばかりで気後れしていた、と述懐するのを聞いたことがあります。
しかし、小野さんはひとつのあまり誰でも真似の出来ない特技を持っていたのです。小野さんの生まれついての物事への興味と言っていいかもしれません。
「なぜこの先輩は、こんなすばらしいスピーチをするのか?」、「どんな勉強をしているのか?」、という興味です。そこで尋ねます。どんな勉強をしてきたのですか? どんな本を読んでいるのですか? ぜひ教えてください・・と。
教えてもらった本や雑誌を読んでみると、次に先輩のスピーチを聞いた時、その中に自分もすでに読んだ言葉がたくさん出てくる。「なぁんだ!先輩の情報源はこの本だったのか。これなら俺にでも出来る」、と言ってひとつ前進するのです。こんなことの繰り返しだったといいます。
先輩が持っているスケジュール管理の手帳、定期購読雑誌・愛読書、行動様式、みんな自分のものにしてしまいました。
小野さんのスタートは、普通のJC新入会員だった。しかし、それからのJCライフはめざましく、毎年毎年、新しい挑戦を行い、華やかな階段を駆け上がっていきました。
31歳、日本JCプログラムマネージャー(この年、LIAプログラムをUS・JCから導入)、33歳、JCI副会頭。34歳、長野JC理事長。35歳、日本JC指導力開発室長(この年SMIを知る)。36歳、日本JC専務理事。37歳、日本JC副会頭。38歳、日本JC監事。39歳、日本JC会頭(三万人対話集会)。40歳、直前会頭(シニアになり、JCアカデミー専任講師として1年間後輩を指導)。41歳、MIA研究会設立。そして、42歳にして突如早世してしまったのです。
小野さんの川中島の自宅は、敷地は広大で、建物も大きかったが、材木屋の倉庫を改造した質素なものでした。
家族は、奥さんと子供が3人、男の子2人、その上に女の子がいました。夕食に小野家伝来の郷土料理『釜あげ』をご馳走になったのですが、釜なべで煮たうどんを味噌と大量の大根おろし、薬味を自分で調合して食べる長野地方独特の食べ方です。うまい! 今でも忘れられない味でした。
泊めていただいた翌日、小野さんは製材職工の社員を二人乗せて本社に出勤しました。私も同乗したのですが、小野さんは長野にいる限り毎日送り迎えをしていたのだそうです。そして、会社に着くと必ず全社員の朝礼をしていました。
日本青年会議所会頭の一年は、4日しか長野に帰れなかったと言っていましたが、それでも帰れば必ず社員を車に乗せて出社したのです。
どんなにJCで忙しくとも、使える時間は全て会社のために使うと言う姿勢、これさえあれば社員はわかってくれます。家族も同じだと思う。
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小野さんと家族のエピソード
小野さんが結婚したて、毎日JCで遅くなる。しかも飲んで帰る。奥さんが「JCと私とどっちをとるの?」と迫ったとき、つい酔っていたので、「俺はJCだ」と言ってしまったそうだ。これには参った、散々やられた、本音を言っちゃあ、おしまいだね、と冗談とも本音ともつかない言い方をしました。
その後日談。
小野さんは日本JCの歴史で初めてという会頭選挙で選ばれたのですが、会頭に立候補することを決意して一番先に奥さんに相談したといいます。
「おまえはどう思う」という問いかけに答えた奥さんの言葉は、小野さんを感激させました。「皆さんが薦めてくれるならいいじゃありませんか。あなたが大きくならなければ私は大きくなれません。私が大きくならなければ子供たちも大きくなれません・・・・」
最初のエピソードと後のエピソードの間にどんなことが起こっていたのでしようか。
多分小野さんが大きく成長し、家族を大切にしていたからなのだと思います。使える時間は少なくとも、日本全国どこにいても、毎日のように手紙や電話を家族に出していたのです。そのことを奥様もよく理解するようになったからに違いありません。
小野正孝氏をなぜムーチョと呼んだのか
小野正孝先輩をなぜ「ムーチョ」と呼ぶのか、MIAプログラムにも若干触れているが、ラテン音楽の「ベッサメ・ムーチョ」の唄でした。
小野さんは、大学でスペイン語を専攻しました。英語力はほどほどと言っていましたが、スペイン語は堪能だったのです。
ほどほどとはいうものの、その英語力もなかなかのもののようでした。
SDJ(サクセス・ダイナミック・ジャパン、小野さんが作ったSMIの販売会社)の副社長大野勝憲氏が言っていました、「うちの社長は、英語は片言なのに、外人と話をしていると、私よりも話がはずみ、内容もよく理解している。なにより相手にも言いたいことがよく伝わっているんだ。これには脱帽しましたね」。やはり、言葉そのものよりも、人間性や人間力が大きくものをいうのでしょう。
まぁ、それはともかく・・・、スペイン語といえばラテン音楽になります。
ラテンに熱中して、当時ラテン音楽の第一人者と言われていた高山正彦氏に師事していたくらいの専門家となりました。そして、JCでも酔えば必ず歌った「ベッサメ・ムーチョ」が評判になって、ムーチョと言うあだ名がついたのだそうです。
「本名ムーチョ、あだ名を小野正孝と申します」と自己紹介をしていたほど、自他ともに認めるあだ名だったのです。
小野さんの自宅の部屋の中には、ラテン音楽のLP、SPレコードが書架に縦に並べて2メートルほどありました。
およそ2000枚ほどあると言っていましたが、その中には、日本には他にないものも含まれていて、放送局から借りにくることもあると言っていました。今ではラテン音楽は聴く機会もあまりありませんが、戦後しばらくはブームのような人気がありました。
私は、このレコードの収集量をみて、圧倒されました。
小野さんは26歳のときから亡くなる直前まで、NHK長野放送局のラテン音楽のディスクジョッキーを15年間にわたって勤め上げたのです。
やはり、只者ではありませんね。
先ほどSDJの大野副社長の話をしたが、もうひとつ大野氏から聞いた小野さんらしい話を紹介しておきましょう。
SDJには、3人ほどの社員しかいなかったが、小野さんは時々、「コーヒーでも飲もうか・・・」などと、つぶやく。そんな時、すぐに椅子から立たないと、小野さんが立ち上がって自分でみんなのコーヒーをつくってしまうのです。社員は何かあったら小野さんが動く前に行動しないとやられてしまう。だから、社員はすぐに行動するという習慣が身についた、と大野さんの言。ちなみに、小野さんは、アメリカのSMI社から「世界のトップセールス」の表彰を受けました。大野副社長は社員というより弟子のようでした。
小野さんは、今出来ることを後のばしにしない。この点では筋金入りです。「後に延ばしたらね、やるまでいつまでも気にかかったままだし、忘れてしまうことだってある。だいいち、一番早く出来るのは、やることが一番鮮明に浮かんでいる今がいいんだよ」と常に言っていたのです。
小野さんは、この信条を三角形のケヤキの木片に刻み込んで手元に置いていました。長さ15センチほどのもので私も一本貰ってきました。木片の三面には一面ずつ、次の言葉が刻まれていました。
DO IT NOW! いますぐやろう!
DO IT BEST! ベストをめざして!
DO IT BY YOURSELF! 自分自身で!
ムーチョとSMI
SMIとは、アメリカのポール・J・マイヤーが開発した自己開発プログラムのこと。Success Motivation Instituteの略で、世界各国語に翻訳・発行されています。ムーチョ・小野正孝の基本的な発想のベースになっていました。MIA研究グループも全員が学んでいて、SMIと矛盾する発想はMIAの中から出来るだけ排除するように配慮したのです。
MIA研究グループ会議のとき、必ず、オープンリールの、分厚いアタッシュケースほどの録音機をテーブルに置いていました。そのソニー製のテープレコーダーは、小野さんがアメリカで開催された世界会議に担いでいったものでした。
当時価格も高く、プロ用で、一般の人には手に入らないものでしたが、小野さんは、せっかく海外まで行くのだから思い切って買ったと言っていました。
そして、US・JAYCEES会頭のスピーチ録音を取るために、会場に行って、会頭本人に「録音を取らせてください」と頼んだのだそうです。
「OK、それなら俺がそのマイクを持ってスピーチをやろう」とスピーチの間、小野さんのマイクを持ってくれた、と嬉しそうに語ったことがあります。
そのことがあってから、US・JCの会頭と心通じる親しい友達になったのだそうです。
しかも、そのスピーチの中に出てきた話がなんとも素晴らしいので、「何でこんな素晴らしい話が出来るのか?」と聞いたところ、アメリカJCの指導力開発のプログラムである「LIAプログラム」の元になったSMIの考え方だ、と教えられたのです。
日本に帰ってきてから、アメリカまでSMIを注文しようとしたら、すでに日本にもSMI OF JAPANという会社があって日本語版のSMIを販売していることが分かりました。小野さんは早速、JCの友人3人と一緒にその会社を訪ねてプレゼンテーションを受けました。しかし、一緒に行った二人は、「自己暗示だね」といって買う意志を持たなかったのですが、小野さんは大金を出してアメリカまで行って得た情報を無駄には出来ない、と思い即座に購入したのです。以来、小野さんの決して長くない人生は、人間開発という分野で、日本でも稀有の人として光彩を放つようになったのでした。
小野さんがSMIを手に入れた日、1969年1月9日は、MIAの中の小野さんのイメージチェックの中に書かれています。小野さんの記念すべき「革命記念日」です。この日を起点として、小野さんはより積極的な人間になった、と回想していました。
私たちにも「革命記念日」を持つように、すすめてくれました。
MIA人間は、MIAを学び始めたその日が「革命記念日」となる、そう心に決めてほしいと強調していました。
プロフェッショナリズム
もうひとつ、アメリカで情報を仕入れてきました。それは、新聞に出ていた求職の広告でした。求職者の売り込み広告でしたが、顔写真を添えて、次のような力強いアピール文が載っていました。
Professionalism・・・・・・
More Than Education.
More Than Training.
More Than Experience.
It's a State Of Mind.
《 プロフェッショナリズムとは・・・、教育を受けた者でなければならないが、それ以上のもの。訓練も必要だがそれ以上のもの。さらに、経験も積まなければならないが、それだけでも不足だ。一番大切なのは、心の姿勢だ 》
さすがアメリカ、こんな自己売り込みの広告を出す人もいるのですね。「俺はプロだ。訓練も、教育も、経験だって十分にある。しかし、そんなやつはいくらでもいるが、俺には、もっと大切なプロとしての魂が宿っている」という言葉なのです。小野さんの持ってきた切抜きは、早速MIAプログラムの中に取り入れたのです。
このように、小野さんの話をしていると、「自分たちにはとても出来ない。もともと小野さんは凄い能力を持った人なんだ」と思いたくなるが、小野さんと直に接していると、自分にも出来るような気がするから不思議なのです。
小野さんは、長野というローカルで、しかも、中小企業の常務、われわれと境遇はほとんど変わらないのです。しかも、自分のやっていることを「こんな方法でやっているんだよ」と全てノウハウを公開してくれるのです。
JCのリーダーには優れた能力を持っている人が沢山いましたが、自分の目標として 「あの人のようになりたい!」と誰にでも思われ続けた人は少ないのではないでしょうか。
次に、小野さんとの「雑談」を少し紹介してみましょう。MIAをつくる過程でほとんどの時間を費やしたのは、この雑談だったのです。
その雑談の中から私たちは大きな学びを得てきました。
ムーチョの情報収集
小野さんは、多量の情報収集をしていました。本はもちろんのこと、雑誌類も十数種類以上定期購読していました。「俺はね、雑誌類がくるとこうやって目次だけ切り取ってファイルしているんだ」と言ってデスクの引出しを開けると、そこにファイルがあって雑誌別の目次だけが、きれいに整理されています。雑誌は、全部は読まない、ざっと目を通して、書棚に並べておく、その並べ方は実に整然としています。雑誌にはどの雑誌にもジャンルがあるから、どんな情報は何処から取ると決めていたのです。
例えば、中国の情報は「中央公論」から、「日経ビジネス」からは経済指標や企業ランキングなど、といった具合です。
そこで、論文などを書く場合に、欲しい情報があると、目次のファイルを見て「中央公論の3月号と、10月号を持ってきて!」と秘書に言うと、2・3分で欲しい情報が手に入ります。
小野さんは、「いつでも取り出すことが出来さえすれば、何も、頭の中に入れておく必要はない」と言うのです。なるほどと思いました。
頭脳の中に記憶という形で保管しておくのか、書架にデータベースをおいておくのか、そのどちらも、いつでも素早く引き出すことが出来れば、目的は同じように達成される、という考え方です。
そして、記憶は完全ではないが、実資料なら完璧、小野さん方式に軍配が上がるはずでしよう。
名刺管理
交換した名刺もムーチョ方式で管理をしていました。
さて皆さんは名刺を何枚くらい管理しているでしょうか。小野さんは、4・5千枚ほど管理していました。小野さんは電話で相手と話をしていて、「あなたとは、去年の八月に横浜でお会いしましたね」、などと言って相手をびっくりさせていました。
いくら小野さんだからといって、そんなに記憶力が良いわけではありません。デスクの引出しを開けば、名刺の箱に縦に並べてあり、それにインデックスが付いていて、即座に相手の名刺が出てくるという仕掛けなのです。名刺には日付と場所、相手の印象などが書き込まれていました。
よく、名刺ファイルブックなどを使う人がいますが、千枚単位以上の名刺管理は、これ以外の方法では無理でしょう。私も、以後現在まで、ずっとこの方式を使っています。
この名刺管理の方法は、MIAプログラムの末尾にあるノウハウカードに収めてあります。ぜひこのノウハウをご利用下さい。
クォーツ時計
時計が常に正確なことは、今では当たり前ですが、MIAの研究会が始まった頃までは、時計というのは時々進んだり遅れたりしていました。その頃、クォーツ時計が市場に登場して、1ヶ月の狂いが秒単位になりました。以来、日本の時計は、世界を制覇しました。小野さんは、他の人よりも早く、その時計をしていました。当時われわれの時計は リューズの手巻き時計でした。小野さんはその時計を見せながら言います、「正確な時計を持っているということは、常に自分の時間を目いっぱい使い切れるということなんだよ。この時計を持っていれば1分前に駅に行っても電車に乗れる。いつも余裕を持って行動できるのさ。仕事だって同じだ」、と教えてくれたのです。
ショルダーバック
ある時、小野さんは九州に行きました。友人を訪ねたのですが、その友人が洋服屋でした。そこで背広を1着つくった。その洋服屋さんの店には、バッグ売り場もあって、その友人が言うには、「背広のポケットには、ハンカチ程度しか入れてはいけない。背広の型が崩れる。だから、女性は必ずハンドバッグを持つでしょう? 男だってバッグを持つべきなのです」、小野さんは納得してそこで売っていたショルダーバッグを買ったのです。
皮製のバッグですが、私たちにもショルダーバッグを持つ習慣はありませんでした。私は次の週に東京の松坂屋まで出掛けてゆき小野さんのバッグと似たものを買ってきました。何事も真似をするなら一番がよいのです。翌月のMIA研究会にそのバッグを抱えていったら他のメンバーから「やられたね、二番煎じの真似はやりにくい」と言われました。
MIA テキスト
MIAテキストはページ数が多いので、使い方マニュアルと、6つのステップに分割してあります。
Chart Sheet
MIA専用チャート(PDFファイル)をご用意いたしました。 対応するステップに関しては、MIAスタートのページをご参照ください。
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